キャンドルと太陽の話

2011年10月27日 木曜日


キャンドルについて少し書きます。







私がキャンドルを通して、「火」と向き合う様になってしばらく経ちました。


もともと、キャンドルを作り始めたきっかけは、キャンドルの造形を楽しみたい、というよりは、「火」と身近にふれあうための媒体としてキャンドルを選んだ、と言ったほうがしっくりきます。


「火」というもの、「燃焼」という現象に対する距離感のようなものはずいぶん近づいたものの、まだまだ火や燃焼について知らない事も沢山あり、「火」という世界が、やはり奥の深い世界であった事に、一定の喜びを感じています。




日々キャンドルに火を灯して、それをきれいだなと純粋に思います。


それは自分が作ったキャンドルなどに限った事ではなく、それこそ仏壇に供えるような小さな無地の白いろうそくも同じです。


仏壇用の白いろうそくなどは、火が灯っていなければ、何の変哲もない白い棒の様なものにしか見えません。

しかし、それにひとたび火を灯せば暖かみと光を放ち、生き物のごとくろうそくとしての天寿を全うする。

それは、立派に美しい光景です。



私が作ったキャンドルも同じ事が言えると思います。

火が入っていない状態では、機能も果たし切れていなく、美しさも何分の1程度のもの。

火が入って初めて、本気の生きたキャンドルとなるのです。




よく、キャンドルを手に入れたのち、一度も火を灯さずずっと置いている方がいます。

そういった方に理由を聞くと、

火をつけると溶けてなくなってしまう
火をつけると形が変わる
もったいない

こういった声を聞きます。


大事にしていただいていると、ありがたく思う一方、できたら火をつけてみてほしいなと思ってしまいます。


それは、そのキャンドルの一番きれいな状態を見てもらっていないからです。


花で例えるなら、火を灯していないキャンドルは、つぼみの状態だと仮定します。
火を灯すという事は、花を咲かすということ。
灯していくうちに、その花はいろんな表情を見せてくれるでしょう。
その花は、時にはあなたを祝福し、時にはじっと見守ってくれたり、慰めてくれるとこもあるでしょう。
キャンドルの形はゆがみ、垂れたり、ススが出たりする事もあるでしょう。
そうやって、一定の時をあなたと共有したのち、最後には枯れていく。



それがキャンドルの天命だと思います。



そう、キャンドルは生き物。
生き物には、全て寿命があります。

それを理解した上で、その貴重な資源からなるそのキャンドルの寿命を、大事に使っていけば良いと思います。



是非、キャンドルが一番輝く瞬間を見ていただきたいと思います。

それは、「本質」を見るという事ではないでしょうか。


頂き物の高級ワインも、開けてみなければ、その高級たるゆえんの「味」はわかりませんもの。















「火」は、ただキレイかどうかという枠を超えた、様々な力を持った存在です。

その力は多様で、照明や調理はもちろん、暖をとったり、宗教的行事に使ったり。
扱いを誤れば、火災や火傷、果ては兵器利用も可能です。



火と人間の関係は、100万年以上という途方もなく永い時を積み重ねてきました。


大昔の夜、もちろん電気も暖房器具もない時代。

生活の中で、「火」はどれほど貴重なものだったのでしょう。

火起こしの技術がなかった時代などは、落雷や山火事などの火を洞窟などで保管するわけで、部族の人々はそんな火を絶やすまいと、まるで神をあがめる様に火を大切にしたことでしょう。


我々の生活に電灯の灯りが広まるのは、たった100年くらい前の話。

私たち人間の心には、先代からの永い歴史の、揺れる火の記憶が深く深く刻まれています。


火を見ていると、時々そんな人類のルーツを思い浮かべます。















火は、太陽からこの地球上に降りてきたものだそうです。

故に、日頃私たちが触れている全ての火は、太陽の一部なのだと。


素敵なお話です。





Masaも、太陽みたいな人になりたくて、それを目指して生きています。


いつも心に太陽を。

自分にとっての大切な言葉。


キャンドルにもそんな想いを乗せていて、太陽みたいなキャンドルを創り続けたいと、常に思っています。











火を灯しませんか。





キャンドルに

焚き火に


あなたの心に